町民センター付近、弁天・本通りを除く市街地各所
市街地 16件
常呂町開基九十周年記念町民憲章碑
「 ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*明治16年に戸長役場が設置されたのを常呂の開基として、昭和48年に開基90周年を
記念して「町民憲章}が制定されました。同時にナナカマドの町木とクレマチスの町花も制定されています。
*寄贈者は、横浜市在住の関野昭氏、昭和49年7月30日に除幕式を行いました。
*明治16年に戸長役場が設置されたのを常呂の開基として、昭和48年に開基90周年を
記念して「町民憲章}が制定されました。同時にナナカマドの町木とクレマチスの町花も制定されています。
*寄贈者は、横浜市在住の関野昭氏、昭和49年7月30日に除幕式を行いました。
忠魂碑
「ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*忠魂碑は、明治の末期あたりから高さ5mくらいの桂の大木の碑として現在の場所に
建っていました。その後、大正9年8月に在郷軍人会と常呂青年団が木柱を建て替えて
いますが、翌10年10月、石造の忠魂碑が建立されました。
昭和48年9月には、石碑が建立されて50年以上経過し、台座に損壊を生じ、危険に
なったため、碑の主柱と玉石台は従来のものを生かし、台座を取り替えて再建しています。
*忠魂碑は、明治の末期あたりから高さ5mくらいの桂の大木の碑として現在の場所に
建っていました。その後、大正9年8月に在郷軍人会と常呂青年団が木柱を建て替えて
いますが、翌10年10月、石造の忠魂碑が建立されました。
昭和48年9月には、石碑が建立されて50年以上経過し、台座に損壊を生じ、危険に
なったため、碑の主柱と玉石台は従来のものを生かし、台座を取り替えて再建しています。
甜菜紙筒栽培発祥之地碑
「ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*この碑は、昭和55年10月に常呂町農業協同組合前に、常呂町・常呂町農業協同組合
・日本甜菜KKの3者によって建立されたものです。
昭和35年、常呂町において日甜農務部技術者の指導により、本道ビート耕作史上初めての
紙筒移植によるビートの大面積栽培が試みられ、予想以上の成果を収めました。
これにより、常呂移植ビートの名声は全道に高まり、各方面指導機関の多数の視察を受け、
道内各地にこの移植栽培が行われるようになったのです。
*この碑は、昭和55年10月に常呂町農業協同組合前に、常呂町・常呂町農業協同組合
・日本甜菜KKの3者によって建立されたものです。
昭和35年、常呂町において日甜農務部技術者の指導により、本道ビート耕作史上初めての
紙筒移植によるビートの大面積栽培が試みられ、予想以上の成果を収めました。
これにより、常呂移植ビートの名声は全道に高まり、各方面指導機関の多数の視察を受け、
道内各地にこの移植栽培が行われるようになったのです。
常呂小学校開校百周年記念モニュメントと保存木「シダレヤナギ」
*このニュメントのデザインは、網走市在住の銅板画家の清水敦さん。内径1.5メートルの
コンクリート製の輪に子どもたちが描いた絵を元に焼き上げた銅板を貼り付けたもので、
上部に「環」の文字があり、白鳥のブロンズ像があります。
*平成7(1995)年11月9日に除幕式が行われました
*記念事業を紹介しているプレートはモニュメントの右脇にあり、記念事業のシンボルマークと
記念事業の紹介、校庭に集まっている全校児童を上空から撮影した写真、
学校木「シダレヤナギ」のことなど、百周年を迎えた喜びを表しています。
*シダレヤナギは、平成21年4月1日に北見市から保存樹木として指定されました。
コンクリート製の輪に子どもたちが描いた絵を元に焼き上げた銅板を貼り付けたもので、
上部に「環」の文字があり、白鳥のブロンズ像があります。
*平成7(1995)年11月9日に除幕式が行われました
*記念事業を紹介しているプレートはモニュメントの右脇にあり、記念事業のシンボルマークと
記念事業の紹介、校庭に集まっている全校児童を上空から撮影した写真、
学校木「シダレヤナギ」のことなど、百周年を迎えた喜びを表しています。
*シダレヤナギは、平成21年4月1日に北見市から保存樹木として指定されました。
常呂小学校保存樹木「ハルニレ」
平成21年4月1日、北見市が保存樹木として指定。指定の銘板には
「約152年、常呂小学校の児童の成長を見守り続けてきた木である。
ふるさとの常呂のシンボルとして住民にも親しまれている」と記載。
常呂小学校校庭の西側、学校給食センター寄りの角にあります。
「約152年、常呂小学校の児童の成長を見守り続けてきた木である。
ふるさとの常呂のシンボルとして住民にも親しまれている」と記載。
常呂小学校校庭の西側、学校給食センター寄りの角にあります。
常呂中学校十周年記念モニュメント
*昭和49年3月31日をもって、常呂中学校・川沿中学校・日吉中学校が廃止され、
同年4月1日に統合した常呂中学校が開校しました。
*このモニュメントは、統合した常呂中学校が10年を迎えた記念に協賛会一同によって
昭和60年4月吉日に建てられました。常呂中学校の広い前庭、校門に近いところにあります。
題字「躍進」の文字は、松平樹人氏の筆。
同年4月1日に統合した常呂中学校が開校しました。
*このモニュメントは、統合した常呂中学校が10年を迎えた記念に協賛会一同によって
昭和60年4月吉日に建てられました。常呂中学校の広い前庭、校門に近いところにあります。
題字「躍進」の文字は、松平樹人氏の筆。
常呂中学校校門
*統合した中学校の開校を記念して、統合前の旧常呂中学校の同窓生が寄贈した校門。左右一対です。
*校門の裏側に「旧常呂中学校同窓会一同 昭和49年10月建立」の文字があります。
*校門の裏側に「旧常呂中学校同窓会一同 昭和49年10月建立」の文字があります。
親鸞聖人御像
*紫雲山常楽寺境内にある親鸞聖人像で、上杉隆昌氏により昭和59年9月に建立されたものです。
一字一石法華塔
「ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*曹洞宗大雲山天龍寺の境内には、昭和10年9月に村中安全祈願のために水谷大学氏が建立した
「一字一石法華塔」があります。
*塔の左側にある石碑には、塔を建立した由来の説明が記されています。
*曹洞宗大雲山天龍寺の境内には、昭和10年9月に村中安全祈願のために水谷大学氏が建立した
「一字一石法華塔」があります。
*塔の左側にある石碑には、塔を建立した由来の説明が記されています。
聖徳太子碑
「ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*曹洞宗大雲山天龍寺の境内には、と大正3年8月に建立された「聖徳太子碑」があります。
聖徳太子は寺院建築史上大きな功績があったことから建築に係わる職人の信仰の対象となったもので、
この碑も常呂町の建築関係者が祀っているのです。
*曹洞宗大雲山天龍寺の境内には、と大正3年8月に建立された「聖徳太子碑」があります。
聖徳太子は寺院建築史上大きな功績があったことから建築に係わる職人の信仰の対象となったもので、
この碑も常呂町の建築関係者が祀っているのです。
排水溝逆水門跡碑
*常呂川3号樋門のすぐ近くの土手にあり、正面は常呂川に向いています。
この水門跡碑は、「碑の趣意」によると、数多くの洪水を防ぎ、安全と発展に貢献した
旧水門(大正12年12月建立)の名板を記念して、平成元年12月に建立されました。
この水門跡碑は、「碑の趣意」によると、数多くの洪水を防ぎ、安全と発展に貢献した
旧水門(大正12年12月建立)の名板を記念して、平成元年12月に建立されました。
藤山ハルさん記念碑
*藤山ハルさんは明治33年、樺太に生まれ、戦後常呂町で暮らしていました。
昭和30年に言語学者の服部四郎氏と知り合い、49年に亡くなるまで、樺太アイヌ語の
すぐれた話し手として、服部四郎氏とともに樺太アイヌ語の記録に取り組みました。
*この石碑は、藤山ハルさんの墓が自然葬だったため、場所がわかりにくく墓参りが難しい
状況だったため、服部四郎氏の長男/旦さんと藤山さんの次女/白川八重子さんが
常呂霊園に平成20年11月3日に建立、除幕したものです。
記念碑には、「樺太アイヌ語話者 藤山ハル 此処に眠る」の刻まれています。
矢印は、ハルさんの故郷樺太の西海岸エストリを示しています。
昭和30年に言語学者の服部四郎氏と知り合い、49年に亡くなるまで、樺太アイヌ語の
すぐれた話し手として、服部四郎氏とともに樺太アイヌ語の記録に取り組みました。
*この石碑は、藤山ハルさんの墓が自然葬だったため、場所がわかりにくく墓参りが難しい
状況だったため、服部四郎氏の長男/旦さんと藤山さんの次女/白川八重子さんが
常呂霊園に平成20年11月3日に建立、除幕したものです。
記念碑には、「樺太アイヌ語話者 藤山ハル 此処に眠る」の刻まれています。
矢印は、ハルさんの故郷樺太の西海岸エストリを示しています。
聖観音菩薩像
「広報ところ」昭和55年12月号から抜粋
*先住民族の霊よ安らかに…と、このほど常呂霊園に聖観音像が建立されました。
この聖観音像は、大通り西(現中央町)の榎本誠・榎本國さん夫妻(注:お二人とも故人)から
寄贈されたもので、ブロンズ製の高さ2メートル、大理石の台座を含めると4メートルにもなる
立派なもの。
*「常呂町の開発に献身した先住民族の霊を慰めるとともに、交通事故で生死の境をさまよった時に
お世話になった多くの人への恩返しという、榎本さん夫妻の心を込めた聖観音像。
11月10日の開眼式には、上杉町長をはじめ20人が集まり、献火を行いました。
*先住民族の霊よ安らかに…と、このほど常呂霊園に聖観音像が建立されました。
この聖観音像は、大通り西(現中央町)の榎本誠・榎本國さん夫妻(注:お二人とも故人)から
寄贈されたもので、ブロンズ製の高さ2メートル、大理石の台座を含めると4メートルにもなる
立派なもの。
*「常呂町の開発に献身した先住民族の霊を慰めるとともに、交通事故で生死の境をさまよった時に
お世話になった多くの人への恩返しという、榎本さん夫妻の心を込めた聖観音像。
11月10日の開眼式には、上杉町長をはじめ20人が集まり、献火を行いました。
ヲキザル船つき場跡木柱
*「ヲキザル船つき場跡木柱」は、昭和58年10月に、常呂町開基百年を記念して町内各地に
設置した木柱の一つですが、現在はありません。
*「常呂町史」では、「明治26年小樽の藤山要吉、網走の荘子豊治が相次いでポントマリで
鰊建網漁を開始した。この頃まで宿屋を兼業する島崎梅造を除いて、藤野関係者以外に
倭人の漁業経営者はなかった。
藤野は、オキザル、ポントマリ、常呂川口等に建網場を有し、常呂川口西岸に事務所を設けて
監督に当たらせていたが、25年これをオキザルに移した」とあります。
*「ヲキザル」の地名は、「常呂町百年史 第5節 常呂町アイヌ語地名の記録(山田秀三・村崎恭子)」では、
「常呂川口の東岸から少し先の海岸あたりまでの地名として覚えられている。アイヌ語からきたものらしいが
語義不明。オ・キサルの音なら「川口・耳」とも「川口・茅原」とも聞こえる。川口のあたりに耳形に
くびれこんだいたところでもあったか、あるいは小さい茅原でもあったかしてできた名か。
語尾のところが省略された地名らしい」とあります。
*「常呂町のアイヌ語地名」(伊藤せいち)では、「常呂地図(明治30年頃)に「オキザル」とあるもので、
旧字名に「オキザル、ヲキザル、ヲキサル」などと語り継がれたもの。海岸の耳のように入り組んでいる
所の意」とあります。
*木柱があった場所は、「旧ヲキザル1番地」、現在の常呂町字常呂27番地あたりです。
設置した木柱の一つですが、現在はありません。
*「常呂町史」では、「明治26年小樽の藤山要吉、網走の荘子豊治が相次いでポントマリで
鰊建網漁を開始した。この頃まで宿屋を兼業する島崎梅造を除いて、藤野関係者以外に
倭人の漁業経営者はなかった。
藤野は、オキザル、ポントマリ、常呂川口等に建網場を有し、常呂川口西岸に事務所を設けて
監督に当たらせていたが、25年これをオキザルに移した」とあります。
*「ヲキザル」の地名は、「常呂町百年史 第5節 常呂町アイヌ語地名の記録(山田秀三・村崎恭子)」では、
「常呂川口の東岸から少し先の海岸あたりまでの地名として覚えられている。アイヌ語からきたものらしいが
語義不明。オ・キサルの音なら「川口・耳」とも「川口・茅原」とも聞こえる。川口のあたりに耳形に
くびれこんだいたところでもあったか、あるいは小さい茅原でもあったかしてできた名か。
語尾のところが省略された地名らしい」とあります。
*「常呂町のアイヌ語地名」(伊藤せいち)では、「常呂地図(明治30年頃)に「オキザル」とあるもので、
旧字名に「オキザル、ヲキザル、ヲキサル」などと語り継がれたもの。海岸の耳のように入り組んでいる
所の意」とあります。
*木柱があった場所は、「旧ヲキザル1番地」、現在の常呂町字常呂27番地あたりです。
二宮尊徳像
*二宮尊徳像は、昭和11年秋に北海道各地で行われた陸軍特別大演習を記念し、
当時の村役場庁舎と議場の間に建立・設置された像です。
台座には「大演習記念 昭和11年11月」と「報恩感謝」の文字が刻まれています。
*昭和36年の中央公民館建設時に中央児童公園(小高神社)に移設。
*平成25年11月、最初の場所(常呂総合支所と常呂町公民館の間)に再建・移設。
台座はそのままに、二宮尊徳像を新たに製作・設置したもので、二宮尊徳像再建
賛同団体(6団体)と再建の経過がプレートとして台座に張り付けられたいます。
*以下は、役場庁舎・議場間時代と中央児童公園(小高神社)時代の二宮尊徳像です。
当時の村役場庁舎と議場の間に建立・設置された像です。
台座には「大演習記念 昭和11年11月」と「報恩感謝」の文字が刻まれています。
*昭和36年の中央公民館建設時に中央児童公園(小高神社)に移設。
*平成25年11月、最初の場所(常呂総合支所と常呂町公民館の間)に再建・移設。
台座はそのままに、二宮尊徳像を新たに製作・設置したもので、二宮尊徳像再建
賛同団体(6団体)と再建の経過がプレートとして台座に張り付けられたいます。
*以下は、役場庁舎・議場間時代と中央児童公園(小高神社)時代の二宮尊徳像です。
常呂高校校訓「流汗克己(りゅうかん・こっき)」碑
「常呂高等学校 四十年史」の年表から抜粋
*和51年10月12日:富永前校長以下教職員の発案により、校訓〈流汗克己〉を制定
*11月1日:当時の常呂町町長上杉武雄氏書の校訓石碑が寄贈
*11月5日:除幕式
*石碑は、校舎の東側にあり、「校訓 流汗克己」の銘板が刻まれている。
*和51年10月12日:富永前校長以下教職員の発案により、校訓〈流汗克己〉を制定
*11月1日:当時の常呂町町長上杉武雄氏書の校訓石碑が寄贈
*11月5日:除幕式
*石碑は、校舎の東側にあり、「校訓 流汗克己」の銘板が刻まれている。