鐺沸地区
鐺沸 2件
旧サロマ湖口碑
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大正末期から昭和初期の「潮切り」作業
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昭和40年代のポント(ポントー)
「 ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*ポント付近に建てられた石碑です。昭和58年の10月に常呂町開基100年を記念して建立されました。
昭和4年に湧別町三里番屋側の現在の湖口が掘削されるまでは、毎春、人工的に掘削開通させていたのです。
春の雪解け水の増水で、周辺の畑作業が遅れることと、木材の沖合の大型船への積み出しに支障が
あったのです。
秋になると海流の関係で、自然に閉鎖されてしまいましたので、この作業は毎年行われたのです。
幕末の記録にもそのことは書かれています。「潮切り」と称していたようですが、高さ2mくらいの砂丘を、
幅100mくらいで段掘にしていくと、湖水は一気に海に流れ出し、たちまち大きな水路ができたといわれます。
しかし、昭和4年の現在の湖口の掘削部が永久水路となったために、常呂側ではこの作業がなくなりました。
*ポント付近に建てられた石碑です。昭和58年の10月に常呂町開基100年を記念して建立されました。
昭和4年に湧別町三里番屋側の現在の湖口が掘削されるまでは、毎春、人工的に掘削開通させていたのです。
春の雪解け水の増水で、周辺の畑作業が遅れることと、木材の沖合の大型船への積み出しに支障が
あったのです。
秋になると海流の関係で、自然に閉鎖されてしまいましたので、この作業は毎年行われたのです。
幕末の記録にもそのことは書かれています。「潮切り」と称していたようですが、高さ2mくらいの砂丘を、
幅100mくらいで段掘にしていくと、湖水は一気に海に流れ出し、たちまち大きな水路ができたといわれます。
しかし、昭和4年の現在の湖口の掘削部が永久水路となったために、常呂側ではこの作業がなくなりました。
常呂漁業協同組合発祥の地碑
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「ところ文庫10 常呂町歴史散歩」(常呂町郷土研究同好会/刊)から抜粋
*昭和58年12月に、阿部義孝氏と藤村礼四郎氏が、常呂町内で最初に漁業協同組合が
設置された鐺沸に建立した石碑です。常呂漁業協同組合は明治45年7月、加藤留五郎氏を
組合長とする鐺沸漁業組合が設立したことに始まります。
*その後、昭和10年3月に常呂村全域の漁民を対象とする無限責任常呂漁業共同組合を設立して、
鐺沸より便利な常呂市街地に仮事務所を移して設置しました。
翌11年7月には本事務所を建築しています。
*注:現在の碑は、平成11年11月に常呂漁協参事の松金勲氏により一部改修したものです。
*昭和58年12月に、阿部義孝氏と藤村礼四郎氏が、常呂町内で最初に漁業協同組合が
設置された鐺沸に建立した石碑です。常呂漁業協同組合は明治45年7月、加藤留五郎氏を
組合長とする鐺沸漁業組合が設立したことに始まります。
*その後、昭和10年3月に常呂村全域の漁民を対象とする無限責任常呂漁業共同組合を設立して、
鐺沸より便利な常呂市街地に仮事務所を移して設置しました。
翌11年7月には本事務所を建築しています。
*注:現在の碑は、平成11年11月に常呂漁協参事の松金勲氏により一部改修したものです。